プロローグ
強い日差しが、私の体の輪郭をグレーの地面にくっきりと焼き付けていた。
私は朝から続く頭痛を抑える薬を買おうと、自転車に乗って近くの薬局に向かっていた。
19世紀初頭に生まれ、より快適に走れるように進化を遂げたこのスチール製の乗り物は、たった今「カラカラカラー、シャリリリー」という音をさせながら、私の肉体と、この凸凹の少ないアスファルトとの距離を一定に保ち、平行に移動させるのを手伝っていた。

皮膚の一枚下にある敏感な部分。
私はそこを何と呼べば良いのかわからないが、鳥肌がたった時に強い存在感を持つ部位がある。自転車が風を斬って進むと、そこを湿った指で直接触れられているような不快な気分になった。

途中、妙な胸騒ぎがして私は自転車を止めた。
日差しの眩しさに目を細めると、通りの向こうに黒い猫がコンクリートの壁と電柱の隙間から現れて、私をじっと見つめ、さらにニヤリと笑ったように見えた。
すると突然、目の前がガクンと揺れたので、私は「あっ!」っと声をあげてしまった。
目の前の電柱がぐにゃりと曲がり、見えていた風景のすべてがねじれた。
胸の中は不快感でいっぱいになり、いますぐここから逃げ出したいと思ったのだけど、ハンドルが私の意志を聞き入れない。声をあげてから1秒後には、私は、そのねじれの中心に吸いこまれていました。

そこからしばらく記憶がない。
意識が戻った時には公園の芝生の上に仰向けになって空を眺めていた。
春の青い空には2本の飛行機雲が、ピンク色のラインをくっきりと刻んでいるのが見えた。
果たして私はどうなってしまったのだろう。
立上がると頭には違和感があった。
なぜだか、少し生ものの臭いがした。
朝から敏感になっていた皮膚に、今度はプールで泳いだ後のような倦怠感を感じていた。
しかし、それほど悪くない気分。
そして、その時、近くでボール遊びをしていた子供が私を指差して言ったのです。
「あの人、頭にタニシ様乗っけてるよ」と。

突然、頭の中でファンファーレが鳴り響き、私のバックに流れていた音楽が転調してマーチ風になり、人生のムードが変わったことを知らせてくれた。
「あれ?こんなところに階段が!」私は公園の真ん中に半透明の物質でできた階段を見つけた。上の方を見上げるとマンガに描かれたような「もくもく雲」が浮かんでいて、その隙間からこぼれた光が地表に落ちていた。階段はその光の源に向かって延びていた。
私は指で頭上のタニシ様に触れ「あの階段は…?」と問うと、
「つべこべ言わずに上りやがれ!」と甲高い声で怒鳴られました。

これが、この時、私の頭上に住み着いた、タニシ様の第一声となりました。
どうやら気性の方が大変荒いようでございます。






第一話 「縄張り」
タニシ様の殻は頑丈で少々重い。
ところで、現在の私はナメクジほどの下等生物なので、日々ゴミ捨て場のカラスの目を気にして生きていかなくてはならない。
彼奴らは気を抜くと頭上のタニシ様を食らってしまおうと狙っているのだ。
そういう風に、タニシ様を頭に乗せていることを半ば諦め、強く生きていこうと心に決め、カラスに打ち勝ち自らの生活空間を快適にすべく、スーパーでトラ縞のロープを10メートルほど買い込み張り巡らせ、その囲いの内側を我が家とする。
人間、諦めがついた時こそ、その人の本質が窺えるというものです。

タニシ様を頭に授かってから約1ヶ月。つまり私が浮浪を始めてから既に1ヶ月が経っていた。
あの時、あの半透明の階段を上って辿りつく場所があるかと思えば、それらしきものは何も見出せなかった。見えたものといえば、黄色い砂漠の真ん中に、ただ果てしなく流れる長い河があるだけだった。

「あら、あなたのは、まだ新しいタニシ様ね…。いつ頃からなの?」
時々このように通りすがりの主婦から声を掛けられる。このような平民の問いにも、私は気さくに答えよう。
「私とタニシ様とは、そう、かれこれ一ヶ月くらい前でしょうか。今が一番大変な時期です」
「わかりますわ。どうぞお気をつけて。でもあなた本当にご立派ね。うちの息子にもそんな時がくるのかしら」
「さぁ、それは私にもわかりません。これくらいの歳にならなけりゃ、本人にも分からないことです。それじゃ、そちらさんもお気をつけて。道すがら、あそこのカラスに買い物籠をさらわれませんように」
…とまあ、早朝に交わされる与太話もそこそこに、本日の飯を思案するのである。






第二話 「伝達」
飴玉を舐めながら歩いている。
さっき商店で見つけた、缶に入った飴を買ったのだ。
缶には、まだ飴が沢山詰まっているので、振っても揺すっても大きな音はしない。

飴を食べる時には、その蓋を開け、飴を空に軽く放り、落下するところに私は口を開けて待つ。
ジャポンと口に飛び込んだ飴を舐めると、ストロベリーの風味が私の口の中に柔らかく広がり、粘膜を通して刺激が脳に到達し、頭上のタニシ様にもこの味が伝わるという仕組みです。
たった今、ピンク色の甘味がタニシ様を包んでいるのでしょう。
タニシ様は嬉しさのあまり体を震わせて、もっと欲しいと訴えております。
甘味以外の不必要な部分は、タニシ様が糞として排出するので、私が箒で処分するのです。







第三話 「焼き鳥」
焼き鳥屋で串刺しにされた鳥や葱などを食していると、目の前で肉の焼き加減を見ていた、焼き鳥屋の主人に話しかけられた。
「兄ちゃん、犬は好きかい?可愛いぞー」
犬には、小さな頃に噛まれた思い出があるので、私は静かにこう答えた。
「いや、犬は嫌いです。特に柴犬が嫌い」
私は、子供の頃のまだ白かったふくらはぎを、強い顎で噛みちぎろうとした、肩の肉が盛り上がった柴犬の姿を思い浮かべていた。
その私の言葉を聞いた親父は、おやおやといった顔をして、焼いていた軟骨を私に一本くれた。
「ほら食え、うめぇぞ」

私はそれを受け取り、無言で骨をコリコリしながら食う。
しばらくして親父は「じゃあ猫はどうなんだ?」と聞いた。
コリコリしながら私が好きだと答えると、タニシ様にも軟骨くれた。
どっちにしろ軟骨。







第四話 「浜辺の遊び」
今日はタニシ様と列車に乗って海まで行った。
列車の窓から見える風景はあまり寒そうではなかったけれど、実際に浜に着いてみると、沖から吹き付ける強風に砂があおられて、私の顔をめがけて飛んで来るのでかなりこたえた。数分も経つと、私の瞼はレモンの皮のように硬く大きく腫れ上がってしまった。
ちょうどその時、遠くの方から一組のカップルが歩いてきたので、すれ違いざまに瞥見すると、やはり二人とも同様に瞼を腫らせていた。



さて、海岸に着いたので、我々は手に持っていたコンビニの袋から「日付変更線(と名付けた紐)」を取り出して、頭の上から浜に降りたタニシ様と、紐の引張りっこをして遊んだ。紐の向こう側は明日で、こちら側が昨日なんです。そして真ん中のライン上(それが今日にあたる)に、少しでも長く居続けることができた方が、このゲームの勝者となります。
ですが、こうも瞼が腫れ上がっていては、楽しいはずの遊びも楽しめず、私たちは仕方無く、日付変更線を海に流して、夕焼けを見てから帰ることにしました。
夕焼けは私の影を前方へ遠く伸ばし、海の中へ姿を隠すのと同時に、私の背後から暗い夜空をもたらした。
しかし、さっき流してしまった紐のせいで、私たちはいつまでも「昨日の世界」にとどまることになってしまったのです。



第五話 「干す」
久しぶりに良い天気だったので布団を干した。
まさにせんべい布団という言葉がぴったりなくらい、ペシャンコになったそれは、私に不平をもらすこともなく、毎晩、それなりの寝床を提供してくれる。
「やあ、すまないな君、私が不精なばっかりに、こんな姿にしてしまって」と、私は目の前で黄金色の光線を浴びている布団に謝りをいれた。

太陽の光を沢山浴びて、再び呼吸をし始めた布団を取り込む時に、私はよろめいて壁に頭蓋をぶつけてしまった。
どうやら、その時から視界の右半分に映る物体が発光し、タニシ様が右側にいる時だけ神々しく見えるようになってしまったようです。
時間が経つと、次第に頭蓋骨の痛みが強くなってきたので、私はその場に布団をドサリ。
毛布もドサリ。
面倒くさいから、そのまま、そこにもぐり込んで眠った。
ああ、怠惰。





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